旧愛媛県温泉郡川内町立川内中学校 昭和48年度卒業生同窓会
2018/08/11 卒業して45年を経過し還暦記念の同窓会が盛大に開催された。本HPは参加された卒業生は元より参加出来なかった卒業生全員に記念として作成しました。
私は仏教考古学(寺院址)が主専攻でしたので、卒業後県の文化財関係の仕事に二年間従事していました。教師になったのは24歳からであり、私の教員生活は旧温泉郡中島町立
中島西中学校(現在は松山市立中島中学校に統合)に始まり、松山市立坂本小学校で定年退職を迎えた36年間でした。教職経験者の方はお解りと存じますが後半の18年間の主任
~教頭~課長~校長職は直接児童・生徒と関わる時間は限られ、教師として子供たちと直接触れ合い・学び・行動を共に出来たのは前半の18年間でした。
川内中学校は二校目の赴任校でありました。生徒を1年~3年と持ち上がり卒業させるのは、教師としては一番理想に近く願うものです。私はこの18年間で持ち上がり卒業させたの
はこの川内中学校が最初で、最後でありその後は何故か3年・3年の連続であり、そういう観点からも心に強く残る生徒達との3年間であり生徒と共に卒業した中学校でもあります。
振り返り思い出しますのは、教科指導(社会科)・部活動(女子バレーボール)等において、新米教師同様の私の指導(若さだけの取り柄しかない)に生徒たちはよくついて来てくれたと
・・赤面の思いが多々あります。この学年は新学期早々に転入生により学級増になり、三日間の学級担任で終わり再度学級編成の組みなおしのハプニングがあったり、皿が嶺登山・
学校林の下草狩り・独特な運動会(体育祭)や学級対抗の数々の行事(私の最初の赴任校であった旧中島西中学校跡地での夏季キャンプ)等、生徒達に思い出深き三年間であった
と思います。私は川内中学校時代に結婚し家庭を持ち長男が生まれるなど、個人的にも印象に残る学校・生徒達であったと思います。
そういう私でも教員としてのその後の職責を重ね、彼らも卒業後それぞれの進路を歩み互いにそれぞれの仕事や家庭を持ち、45年の時を経て再会した旧生徒達と元教師との同窓
会でもありました。
今回、私自身の思い出であると共に卒業生の還暦の記念になるかと思い掲示期間限定のページを作成しました。卒業生以外の方には全く関係の無い私的なHPとなりますが、元々
HPは私的な情報発信でありますのでお許し頂きたいと思います。卒業生の皆さんは共に過ぎ去った45~47年前を懐かしく振り返って頂ければと思います。
旧温泉郡川内町立川内中学校の沿革
昭和33/11/16 川上・三内・松瀬川・滑川中学校が廃止され、新川内中学校新校舎落成記念式
昭和33/12/01 新校舎にて授業開始 昭和35/12/10 体育館(旧)落成式 昭和38/04/22 寄宿舎(滑川地区)落成式
昭和39/06/20 プール完成挙式 昭和42/08/25 図書館竣工 昭和43/01/22 運動場拡張
昭和48/09/23 運動場夜間照明完成 昭和51/03/17 寄宿舎閉所式 平成01/09/30 本館東校舎大規模改修
平成02/09/30 本館西校舎大規模改修 平成11/03/11 新プール・屋内体育館完成 平成16/09/21 市町村合併により東温市立川内中学校に校名変更
平成22/08/22 本館校舎改築工事 平成23/08/28 新校舎完成落成式
生徒数の変遷
昭和33年-674 昭和37年-928 昭和42年-648 昭和46年-577 昭和47年-526 昭和48年-483 平成元年-457 平成10年-414 平成20年-343
平成27年-302
当時の写真
校歌 当時の教職員
学級写真
学年主任 I・Y先生(国語) 温厚でかつ柔和な性格で学年の全てを統率する、頼れる存在(前A・M主任の方針を誠実に実行された。) 着任1年目
1組 Y・S先生(保健体育) 陸上をされておられ体育系であるが、温情豊でかつ理性的な方で学年のリーダー的存在であり頼れる兄貴的存在。 他学年から応援
2組 S・I先生(理科) 独特な理科の授業スタイルを確立、熱心で理論派。但し終学活の長~いお話は生徒達には・・・・やんちゃな面も。
他学年から応援
3組 W・M先生(数学) 温和で熱心な指導力は定評があり、親切で解るまで教えるスタイルを崩されなかった。静かで独特の雰囲気を醸し出す存在。 着任1年目
4組 K・M先生(英語) 何にでもチャレンジする精神と負けず嫌い、細やかな生徒への配慮や指導力を持つ女性教師のホープ。 1年から持ち上がり
5組 O・M 私 (社会) 若さゆえの行動力は持つものの、新米教師の域を脱しておらず、未熟な面が多く見られる。考古学との二足の草鞋。 1年から持ち上がり
学年部 K・N先生(保健体育) 若くて優しく接して頂けるので、学担に話せない事等、生徒の良き相談相手をしていただきました。
当時の川内中学校内でも個性的な教師の集団であったと思われる。I・Y学年主任は前任のA・M学年主任の学年経営方針を変えずに、広い目で学級担任を応援して下さり共に持
ち上がったK・M先生とは互いに意識して学級経営を行った事は良く覚えており、女性教師として良きライバルであり相談者であったことが蘇る。そういう私たちをさらに大きな目と指
導力で包み込んで頂いていたのが奥田校長先生であった。
後年、学校長の立場となった私には、自分の統率力の無さを歯がゆく思った事はしばしばであった。私は教科が同じ学校長に直接指導方法をお聞きし、学ばせて頂いた思い出が
多々ある。「最高の学年であった。」と言われたお褒めの言葉が今も耳に残る。どの学級も何かに燃えていたそういう学年の生徒達と共に過ごし、同時に巣立ったので、1年2組~2
年4組~3年5組と各学年で担当した生徒の記憶は今も鮮やかに残っている。その後何度も3年生だけ連続で受け持ち卒業させたが、彼ら以上に記憶に残る生徒達と時間の共有を
持つことは出来なかったのが私の教師人生だったと言えます。若さが故に、未熟だったが故に彼らに済まないと思う気持ちが、彼らと会う度に湧き上がるのを禁じ得ない。この思いは
何人かの教え子には語ったけれど、改めてこのHPを通じて伝えておきたいと思います。
現在の学校環境
* 彼らが卒業して45年の歳月が川内中学校にも見られる。学校の敷地面積も広がり、本校舎・特別教室・図書館・体育館等も全て建て替えられ、運動場も拡張されている。当時の
面影を残しているのは運動場のバックネットと運動場北側に大きく成長した「せんだん」の樹であり、かつて彼らが学んだ建物類を見る事は出来ない。これも時間の経過であり歴史の
流れと認めざるを得ない。現在の川内中学校は環境・施設面においても素晴らしい状態であり、彼らより二年後輩のW・Hさんが現在校長職に赴いている。
*卒業生の皆さんへ 現在、八幡浜市に静態保存されている9600型蒸気機関車79642号機を整備中であり、F君とFさんに撮影して頂いた同窓会の写真は、極端なピンボケ以外
全てありのままの様子を次回に掲載しますので了承願います。ご期待くださいな。 2018/10/05
* お待たせしました。同窓会第二弾です。その前に皆さんが卒業した年の学校長は奥田和久先生でした。ご存知かと思いますが過日97歳でご逝去されました。あの頃の若き私に
社会科指導の技能や教師としての在り方について熱心にご指導いただきました。当時確か50歳そこそこで新進気鋭の学校長でした。その後考古学と教師の二足の草鞋を履いた私
に教師として、専門職として生徒の為に貴方の力が欲しいと力説され、教師一本の道を選択したのも奥田校長先生のお蔭と改めて御礼を申し上げると共に、皆さんとご一緒にご冥福
をお祈りしたいと思います。
さて、同窓会は2018/08/11・松山市南堀端の「東京第一ホテル」を会場に午後二時から開催されました。今回は受付の様子から開会時までの様子を紹介したいと思います。
受付時から懐かしい顔・顔・顔でした。当時と変わらない容貌・・・すっかり変身を遂げたウルトラマンや宝ジェンヌ等・・など・・楽しい時間が始まりそうでした。私の機関車撮影用のカメ
ラでF・M君とF・Aさんに撮影して頂きました。慣れないカメラなのでかなりのピンボケもありましたが、解る範囲で340枚程を掲載します。皆さんの姿に当時の姓名をイニシャルで入れ
ております。間違っていたら御免なさい。写真をクリックすれば大きい画面になると思います。皆さんもスマホで撮り合っていたとは思いますが、写真が必要な方はイニシャル・コメント
無しの原画をメール添付で送ります。クリックするとパソコンならkw087と表示が出ると思います。遠慮なく申し出てください。二つのカメラの時間経過順に並べています。では、同窓
会スタートです。受付~からです。
* 先生方入場からY・S先生のご挨拶まで
* 記念撮影まで
* 今回はここまでです。次回はいろんな顔が・・・・
同窓会第三弾です。
* ここで皆さんの知らない私の自己紹介をしておきたいと思います。大山正風(オオヤマ・マサカゼ)通称は音読みの(セイフウ)整備仲間の通り名は(愛媛のKAZE)と使い分けて
います。学校関係では(セイフウ)で通していました。1945(昭和20)年11月11日愛媛県喜多郡内子町に生まれる。このHPを更新している時は74歳になっていますね。6歳にな
る直前まで内子町の木蝋記念館の上芳我亭の別棟で暮らしていました。内子駅は子供たちの遊び場でC12型機関車を真近に見て触っていました。この幼い時の記憶が現在の蒸
気機関車の整備に繋がっています。
松山市鷹子町に移住し久米小~久米中と過ごし、中学時代の社会科の時間に先生の話や土器の実物を触って関心を高めたのが始まりで、当時の久米小中学校のグランドは雨
が降ると土器片が露出していました。来住(きし)の長隆寺には訳の分からない意味不明の巨大な石が転がっていました。私の考古学への始まりはこの辺りからでした。長じて大学
時代は仏教考古学を専攻し「古代学協会」の角田文衛博士のご指導を受け、京都市内の「三条東殿」・「押小路殿」や伊丹空港滑走路拡張工事・大分「丹生遺跡」の発掘に参加して
いました。
愛媛に関しては大学3回生の時に旧上浮穴美川村(現・久万高原町美川)の縄文時代前期の上黒岩岩陰遺跡の発掘にも参加しており、先輩の森 光晴・長井一秋両先生からは
愛媛に戻り一緒に考古学をというお誘いも受けました。私の考古学の分野は古代(飛鳥~奈良)の寺院址と関連する瓦窯でした。大学2回生の夏から先述の来住「長隆寺」の巨大
な石(寺院の礎石)の調査を始め、3回生・4回生の時に学友の強力を得て自費で発掘調査を行いました。卒業論文は「松山地方における古代寺院址の研究」で、長隆寺を始め松
山平野の8箇所の古代寺院址の確定と副論文は共有する「法隆寺式・平群寺式)の軒丸瓦と瓦窯についてでした。
私の発掘で長隆寺の巨大な石は「五重の塔」の礎石であり、他に長隆寺の本堂は「講堂」である事が判明し、奈良時代の「法隆寺」か「法起寺」式の伽藍配置では無いかという想
定を生み出し、久米は大和朝廷の軍団の一つの「来目」氏(久米舞)に関連した地名であり、日本各地に残る久米の語源と言われています。東大寺正倉院文書に「伊予国久米郡天
山郡 久米直(あたえ)熊鷹という人物の名前があります。また「釈日本紀」伊予風土記逸文には伊予郡家東北に天山あり、・・御影を久米寺に奉ずるの記録があり、この久米寺が
来住の「長隆寺」と推定したものです。
その後発掘調査が松山市に引き継がれ大規模な発掘調査が行われ、回廊や宿坊等の遺構が検出され隣接する地域からは多くの建物の遺構や文字を表した器や木簡等多数が
発見され、長隆寺を含む一帯が久米郡衙であることが判明しました。それを受けて後日当地は「来住廃寺跡」と改称され、松山城に次いで二番目の国の史跡として認定され現在に
及んでいます。少なくとも私の発掘は埋もれた歴史に史実としての位置づけをしたことになります。若くして自分の目的を達成してしまったのも善し悪しです。
卒業して松山に戻った(父が病に倒れ京都で決まっていた就職を諦め)私ですが、当時は「考古学」では暮らして(生きて)行けるはずも無く、県の文化財関係の仕事に従事してい
ました。もちろん正式な仕事でも無く、先輩の森・長井両氏の如く教師の道を選択しました。卒業生の皆さんや本業として教師を目指されていた方々には申し訳ないのですが、教師
=夏休みがあるじゃないか=発掘が出来るぞ・・・実に甘い考えでしたね。二年後教員免許は保有していましたので採用され、最初は北吉井小学校にそして正規職員として中島西
中学校に着任、そして一年後川内中学校に転任し貴方方卒業生の皆さんと出会ったのです。何も知らない貴方達に「先生!先生っと呼ばれる私は本物の教師では無かったのです。
自戒を込めて・・・続きはこの次としますかね・・では写真に戻りましょうか
* 乾杯~学級ごとの個人挨拶?話?自己紹介?まで
* 同窓会第四弾です。学級ごとの自己紹介の時間ですよ、皆さんは同級生だからすぐに判ったかと思いますが、45年も経過すると私には「驚きの連続であり」特に45年振りの
皆さんを直ぐに認識できたのは僅かでした。皆さん年相応に変わりましたね、ま、そりゃそうですよね45年の歳月は容貌も表情も人格もあの当時のままでは無いものでしょう。で
も皆さんが見せる表情や仕草は当時と変わらない人もたくさん見かけて微笑ましい印象を受けました。先ずは参加者の面々を一人づつ紹介しましょうか。
幹事のT・Hさんから自己紹介の案内があり5組から始まりました。
4組です
3組です
2組です
1組です
皆さんはどのように聞かれていましたか? 私は皆さんとこの先にもう逢え無いかも知れないし、皆さんの45年を聞き逃さまいと真剣に聞いていました。僅か1~2分の間スピ
ーチで全てを知る事は不可能でしたが、皆さんの短い言葉の中にそれぞれがそれぞれの道を歩いてきた事が、その顔や表情や仕草で伺い知る事はできました。それは皆さんの
生き方・努力・人生そのもので、聞いていて驚いたり感動したり失礼かとは思うが笑ったり、感激で涙が零れそうになりました。本当に皆さんはいい歳の取り方をされましたね。女
性陣は上手に化けているから解らないけど、男は隠しようも無くすっかり白髪になった者・かなり薄く輝いている者・深い皺が額に刻まれている者・歳以上に更けた者(どっちが先
生なのやら・・)・体型がすっかり変わった者・当時の顔が目が表情が仕草が笑い顔が変わらない者・若かりし皆さんを知るが故に時の流れを否応なしに感じさせる時間でもありま
した。バレー女子のキャプテンのW・H、アタッカーのM・J、レシバーのM・Jの三人が揃って参加してくれているのが私は嬉しかったですね。他の6人にも逢いたいですね。今日皆さ
んと逢えたたことの思いは他の先生方も同じでした。特に皆さんが一番再会したかったK・M先生にとっては今も学習塾を経営されておられ、毎年100人以上の生徒さんと関わら
れておられますが、公立中学校では皆さんが最後の教え子であった訳で、私以上に感激・感動されておられました。
皆さんの中には病をされた人も居ると聞いておりますが、今は元気に過ごしておりこの席に顔を出してくれました。私のクラスだったS・Yさんは若くして命を絶ってしまいました。報
を聞いた時に愕然とすると共に教え子に何も聞いて・して上げられなかった私の未熟さに戸惑い、猛省した自分を覚えています。この席に彼女が参加する事ができたならと思うと今
も辛いですね。それも彼女の人生だと言い切れないものが存在します。皆さんも若き時には自分に、将来に、学問に、成人してからは仕事に、職場に、対人関係に、恋人に、家庭を
持ってからは親に、妻に、子供にと悩み迷い人知れず苦労を重ねてきたと思います。そして今の皆さんがここに存在しています。それは決して自分だけではないので隣の同窓生も
同じかなと思いますよ。 次回は皆さんの知らない私(川内中以後)の話しをしましょうかね。
*同窓会五弾かな・・・では皆さん知らないその後の私の教師時代を簡単に(と言っても語り尽くせないのだが)紹介しておきます。川内中の後は砥部町立砥部中学校~松山南中
学校に転勤しました。当時はまだ考古学の発掘には関わっていましたね県内の名だたる考古学上の遺跡(縄文~江戸期まで)の発掘調査には必ず私が関与していました。殺人的
スケジュールだったと思います。でも教師としての当然の職務に手加減を科すことは絶対にしてはいませんでした。しかし精神的に追い込まれつつ有った事は否めないですね。そ
んな私に尊敬する奥田校長先生が申されたのです「考古学の事は私も社会科ですから解ります。でも貴方の主専攻である寺院址については既に成果を出されたのだから、その
持てる能力を生徒たちの為に全身投入するべきでは無いでしょうか」と当時の学校長からも散々言われてましたので、考古学は学問の世界だからいつでも出来ると判断し教師一
本に絞る事を決意しました。京都時代の仲間から「教師を辞めいつでも戻って来いよ」と言われた事が懐かしく思い出されます。この友が後に私の窮地を救ってくれました。(後述)
それから鴨川中~内宮中~南第二中に努めましたが、この三校10年間で9回連続で3年生を持ち卒業させました。偶然にも同じ最後の3-6だったので街角で「先生お久しぶり
です。6組の・です」と言われても咄嗟には思い出せず苦笑する事がしばしでした。私の能力の全て出し切り全力投球で、学習指導に・生徒指導に今では珍しくもない不登校や引き
こもりの生徒と真正面から取り組んだ10年間でした。部活動も続けていて南第二中で県大会優勝し、全日本メンバー・オリンピックにも出場した佐伯美香さんは最後の部活の教え
子でした。そして重信町立重信中(主任職)~中島町立中島中学校(教頭職)~砥部中学校と直接生徒と接する立場からは離れてしまいました。教頭職ですから学校長の補佐は元
より先生方の悩みや相談・地域の方々との渉外等々、もちろん問題を抱える生徒との個別的な相談や指導はありましたが、益々生徒から離れた存在になりましたね。このまますん
なり行かないのが私の人生でして今度は再び考古学の見識を求められ、「県・埋蔵文化財調査センター」の調査課長に二年間という期限付きで就任しました。私しか居なかったの
でしょうかね? 高速道路や大規模開発における県下一円の発掘調査の指導にあたりました。色々ありましたが皆さんは覚えていますかね?伊予の守護職「河野氏」の本城道後・
湯築城の県の発掘調査体制を批判し、文化庁に直接談判し(京都時代の旧友がいたので)予算の追加と調査続行を求めた事もありました。そうですね「湯築城」が最後まで発掘調
査が出来、跡地はきちんと整備され資料館があるのは私の力かな?当時新聞紙上やテレビで何度も賑わせました。考古学上の文献には私の名は今も残っています。
所謂造反・内部告発をした私ですが、新任校長として広田村立玉谷小学校(現在は廃校)に赴任しました。前任者からの何の引継ぎも無く着任したのですが、児童・職員・地域に
全く笑顔が全くありませんでした。前年不幸な事故があり学校・地域全体が沈んでいたのです。校長としてすることは学校を通して児童は当然・職員も地域にも笑顔を取り戻す事で
す。敢えて私を赴任させた意図が見えますね。当然負けず嫌いの炎が燃え盛りましたよ、危険だからという事で全ての遊具が撤去され何も無い運動場に地域の間伐材をPTAの方
々の協力で無償で頂き、9種類の木製トリムやシーソー等をチェンソーで切りまくり製作して児童を遊ばせました。3年間で児童に遊びや物を作る事で「優しく強く、他人を思いやる
心を」培いました。陶土が取れる地域なので、型枠を作成し乾燥させ、地元の砥部焼釜で本焼きをして頂き「棒状陶琴・3オクターブ」6個を作成し児童に紐で吊るさせ、木琴の様に
叩き音階を出させました。児童は見る見る内に上達した童謡曲を学芸会・地域文化祭で披露し、老人ホームへの慰問も行い自信を取り戻して行きました。在校生全員に「陶琴演奏
集CD」を渡しました。短い3年間でしたが教員生活で最も私は輝いていました。この時期に昔に戻り皆さんと出会っていたらどんなに楽しかった事か・・・「陶琴はその後もしばらく使
われました」・・誰も真似て作れない物です。ブラスバンドの経験が生かされました。1セットは今も自宅に保管しています。
児童と地域の方々に笑顔で送られ、松山市立桑原小へ~小野中学校~中島町立怒和中学校(途中で松山市立)~いろいろとそれぞれの問題を抱えていた学校でしたがいずれも
一年で問題解決をし~最後は松山市立坂本小学校へ・・本当に何も無い起こらない静かな学校であり、ここでも児童と楽焼釜や動物飼育を楽しんだり校庭の周囲の木々の剪定をし
て季節が移りました。いつも作業服でウロウロしてましたので、「校長室はどちらですか」とよく尋ねられました。「悪戦苦闘・孤軍奮闘」の私への教育委員会の配慮だったのでしょう
か??職務とはいえ自分の信念や心情を押し殺し矛盾だらけの教師の虚像から、「玉谷小」とは異なる純真な坂本小の児童たちに心洗われ、自分を見つめなおす事ができました。
そして、あっという間に一年が過ぎ去り、コブクロの「桜」の歌が流れる中を私は最後の卒業生を見送り、波乱万丈だった私の教師生活は終わりを告げました。本当に数えきれな
いくらいの様々な問題・事件に関わりましたね、教育公務員ですから知りえた秘密は退職後も・・・です。しかし大人になり子供を育て人生を生きて来た皆さんには私の教師人生がど
んなものだったかは想像できるのでは無いでしょうか・・・これでも簡潔に書いたのだが・・はいお待たせしました。個人紹介後~ビンゴーゲーム~懇談~校歌斉唱~散会までです。
* いやいや本当に楽し気な皆さんの顔・顔・顔でした。別れと会の名残を惜しみ再会を約して、それぞれの道へ戻って行きました。その後有志で二次会が設けられました。さら
に新しい皆さんの顔が見られました。次回はその様子と、退職後の私の14年間の今を紹介しましょうかね(何かの役に立つかも??)
* さて、同窓会紹介も最後となりました時間がかかり御免なさい、機関車の整備と並行して処理していましたのでご了承を、貴方達も60歳を迎え定年退職の人もあれば自営業
だから、家庭の主婦だから関係ないなあ~と言う人もいるでしょう。それはその通りしかし、還暦を迎えた事は人生の分岐点かも知れないし再出発かもしれないし、無意味ではな
いと思いますし自分を振り帰る良い機会と思いますね。
私は、最後の一年間は本当に平和で暇な時間がたっぷり有りましたので、退職後の自分は決めていました。考古学は学問の世界でありいつでも出来るし、後輩も育っているの
で私の出る幕は無いだろうし、今でも関心はあるから県内を問わず貴重な発掘の報告があると、のこのこ出かけて見聞を広めています。退職後教育関係の仕事に就く方も多いの
ですが私は全く、一切考えていませんでした。全国の現役教師から批判されるかと思いますが、教師ぐらい矛盾と自己犠牲に立つ職業は無いかと思う。決して聖職ではあり得ない
のが現実でしょう。私も自分の信念や心情を捨てて職務に当たりました。中にはその影響を心に病み退職された方もおります。私は武田鉄矢扮する「金八先生」になりたくとも、な
ろうとも、憧れた事も在りません。私は私なりに児童・生徒の皆さんに真っすぐ向き合って来ただけでした。厳しく指導した事もありましたから、嫌われ者で通り尊敬の言葉等受けよ
うとも思わなかった教師生活でした。実践行動型でしたから同僚からも上司からも疎まれましたが、我が道を管理職になっても貫きました。教師と言うか自分の生き方は「有言実行
」を主義としました。本当は「不言実行」でありたいのですがその勇気が無く、言えばせざるを得ないじゃないかと・・・とにかく逃げるのは嫌いでした。だから同僚からも上司からも裏
切られた事は多々ありましたが、今もそれは通しています。従って「有言不実行」「不言不実行」の方とはお付き合いはしたく無いですね。それと座右の銘と言おうか努力目標と言お
うか「現状維持は退歩に繋がる」が好きですね。日々が毎日が何かを求める、努力し続けるその考え方が好きですね。
人生何をしたか何を残せるか、そりゃ子供や孫ぐらいは覚えてくれてるでしょうが、それも絶えれば終わりですね。教師の私は覚えてくれている教え子が存命中は記憶の中にあり
ますが学校の記録には探しても・・・??かな おしなびて人がこの世に生きた証が「墓石一つ」では・・・名誉欲では無く何かを自分が生きた時代に残したいですね。私は考古学で
は既に著書や報告書に名を残しているし、機関車の整備の事もWEBがある限り私の名は残っています。「誰かが何かを誰かの為に何かを残す」その思いが、蒸気機関車の修理を
ボランティア活動でする事に繋がりました。まず、自分が生かされた地域社会への恩返しに地区公民館のお手伝いを2年間すると共に、全国の保存蒸気機関車の写真を撮影しこの
ホームページを作成しています。
何故蒸気機関車なのか年寄りのノスタルジアでもありませんよ、人の生き方と重なって見えるのです。蒸気機関車は我が国の戦後の復興に大きく寄与した原動力です。現代の自
動車社会と異なり鉄道に依存した時代でした。多くの若者が集団就職で故郷を離れたのも汽車の旅でした。老若男女を問わず誰しもが嬉しい時も悲しい時も、花嫁が嫁いだ旅も、
遺骨の故郷への旅も、人生の悲喜こもごもを乗せて蒸気機関車は遮二無二全国を疾走したのです。人が必至に生きた姿と同じです。そして、人は老いて行く蒸気機関車は熱効率
と合理性・日本の工業技術・産業の変化に伴い、都会を追われ辺境の地へ、役に立たない人間は職を追われるがの如く、ディーゼル化・電化に追われ解体の道をたどります。幸
運な機関車は記念品として各地に静態保存されました。最初は大歓迎され清掃もされ大切にされていましたが、10年~20年~30年~40年と時間の経過と共に清掃・整備される
ことも無くなり、鉄が故に簡単には腐りませんが見苦しく荒廃し、今や忘れ去られ片隅にそっと(図体がでっかいからど~んと)置かれています。
そんな蒸気機関車の昔の輝いていた頃の姿を取り戻させてあげたい。最後まで輝いていて欲しいから・・人の人生も最後まで輝いていて欲しいから・・それが私が蒸気機関車を修
理したい気持ち、幼き内子時代の蒸気機関車の思い出がそうさせています。自分の子供たちは独立していますし、退職後の私の一人生活なら何となるでしょうとこの14年間各地の
蒸気機関車を修理してきました。今も八幡浜市の79642号機を修理中です。これが私の第二の人生かな、何も言わない、語らない機体に話しかけながら毎日コツコツとやってます。
通信簿の我慢強い・根気強さの項目なら大の◎でしょうね。
最後に、還暦を迎えた大人の皆さんに敢えて言う事はそれこそおこがましいと思います。私より素晴らしき人生を歩んできた皆さんがその証明です。これからも自分を変える事無く
歩み続けてください。私の様に教師時代を悔やみ後悔する事は避けられるべきです。これを機会に新しい事を始めようかと思われる方はその意気に・勇気にエールを送ります。あなた
の人生ですから貴方が・貴女が納得する生き方をされる事をお勧めします。
次に同窓会が何時行われるかは知りません。元気でしたらまた、会いたいですね。しかし、気力はあっても体力が追い付かないのが今日でして、限界を感じています。会えなくても
皆さんに「先生、ようここまで頑張って生きられたね」と私の写真に語り掛けてもらえる様に、私も残りは少なくなりましたが生きたいと思います。「最後に、おいおい私より先に逝くなよ。
元気でいろよ・・・お互いに・・・では次に会える日を楽しみにしています。」 2018年12月3日 川内中学校3年5組担任 大山 正風
追記 八幡浜市の79642号機は来年1月26日(土曜)(予備日27)に完成披露式典が行われます。時間は未定ですが決まればここに報告します。時間がある方は見に来てくださ
いな。
* 二次会の写真です。コメントは入れていません。さらに新たな表情と楽しいひと時でした。最後の写真、笑顔が素敵な皆さんたちでした。本当に有難う。感謝しています。
* 白黒写真は当時沢山撮影した思うのですが、私の手元にはこの二枚しか残っていません。バレー女子と二年生の時の写真です。これも懐かしいですね。